プロフィール

どうもこんにちは。本ブログ運営者の野口銀河(のぐちぎんが)です。

「三島市の若者と共に世界的に模範となるダンディになり、世界平和につなげる仕事」をしています。

具体的には

  • WEBサイト制作
  • WEBサイト活用コンサルティング
  • WEBライター
  • WEBライティング・記事作成コンサルティング
  • アパレル輸入販売
  • ビジネスマンのためのコミュニティ運営

などが主な仕事内容です。また、それと同時にサラリーマンとして週5日、会社に通勤しています。

会社員+複業という、いわゆる「パラレルワーカー」ですね。こういった話をすると、多くの人に「そんなに仕事して大変じゃない?」と聞かれますが、全然大変じゃないです。

なぜなら

  • 「これを生涯をかけてやり続けたいという思い」が「自分の価値観」から出てきている
  • 仕事に対する愚痴や文句が出てこないほど楽しい
  • 同じ価値観や考えの仲間に恵まれ、人間関係のストレスがない
  • 衣食住や行動において、上質な服を着たり、上質なホテルに泊まったり、上質な食事をしたりなど、常に上質な空間を選ぶことができるのでエネルギーの消費が少ないどころか、逆に回復する
  • 結果的に「仕事している時間≠エネルギーを消費する(疲れる)時間」となるので、作業時間が多いから疲れるというサイクルがなくなるし、逆に仕事をしながら常にモチベーションアップに繋がっている

というようなことが起きているからです。

僕からすれば

  • 仕事はつらいもの
  • 生活費を稼ぐためと割り切って我慢するもの
  • 特に「これがやりたい」というわけじゃないけど、仕事しないわけにはいかないからとりあえずやってる
  • 転職したいけど、他にやりたいこともないし見つからない

といった人の方がよっぽど大変そうに見えます。もちろん僕も昔から自由にストレスなく生きてきたわけじゃない。

僕は僕なりに色々と悩みや葛藤と戦い、自分の居場所を作ってきました。

ここでは僕が自分の「人生」そのものにこだわりを持ち、周りの環境を自分の好きなものと好きな仲間たちで固め、オンオフ関わらず24時間365日ストレスなく満足度の高い人生を得るまでをお話ししていきます。

30歳手前になって気づいた、何もやらずに流されて生きてきたヤバさ

2013年6月のある日。僕はいつものように早朝からトラックに乗り込み、同僚と仕事現場に向かっていた。

東名高速に乗る手前でいつものコンビニに寄り、お昼の弁当を選ぶ。それから朝ごはん用におにぎりを2個とお茶と缶コーヒーを持ち、レジに並んでいる最中に目に入ったチキンも頼んだ。

同僚とトラックに戻りエンジンをかける。

「さぁーて、それじゃ向かうとしますか」

昨日と同じ光景と会話が今日も繰り返されている。

「今日の現場どんなだっけ?」

「マジでこれを2人で1日で終わらせろとか、社長も無茶ばっか言うよなー。今日も家着くのは22時ぐらいかな」

「だいたい主任の采配がずりーよな。なんであいつの現場が3人でこっち2人なんだよ。むこうのが近いし小さいんだからこっちに人よこせっつーの」

「あー、なんかいい仕事ないかなー。さっさとやめてーよこんな会社。割に合わねーよ」

当時の僕の生活は毎日こんなだった。だけどこの日だけはそれまでと違う事象が1つ頭によぎったんだよね。

「あ、俺もうすぐ誕生日だ」

30代という年齢の節目を意識して

僕はもともと誕生日や記念日、クリスマスや年末年始といったイベントごとにあまり興味がない。

自分の誕生日を迎えること自体も、「明日が今日になる」というぐらいの感覚でしかなかったけど、28歳になるということで「30代」という1つの節目のようなものを瞬間的に強く意識したんです。

  • 今の会社に入ってから毎日毎日、同じような文句ばっかりタラタラ繰り返して生きてきて2年近く経つんだなー
  • あれが欲しいだとか、あそこに行きたいだとか、あれが見たいだとか食いたいだとか、いろんなこと言いながら全然やれてないなー
  • こうやって30代から40代になるときも同じこと思うのかなー
  • 50代になるときも60代になるときも死ぬときも同じこと思うのかなー

……。

……。

そんなの絶対やだな。

ほんと一瞬の間にこんな考えが頭の中でぐるぐる回りだして、鼓動がめちゃめちゃ速くなった。よくわからないけど、すげーヤバいと思って勝手にめっちゃ焦った。

「俺、会社辞めるわ!」

いつものように出発して、いつものようにコンビニ寄って、いつものように文句言いながら、いつものように現場に向かっているトラックの中で、僕は突然そう言い放って次の日に社長に辞表を出した。

「どうしたんだギンー!?」

どうしたもこうしたもない。あと1ヶ月で僕はここを辞めて、やりたいことやる人生を送るんだ。

自分の意志と価値観に向き合い、正直に生きる

思えば子供の頃から自分の好きなことや興味のあることには、とことん忠実。逆に興味のないことや嫌いなことは心底どうでもいいと考える性格だった。

その好奇心や幅広い分野へのいい意味での広く浅い興味や、「やってみてから好きか嫌いか判断する」という考えは両親の教育の影響もあったと思う。両親には小学校に上がった頃から多くの習い事や教室に通わされた。

覚えている限りでも

  • 珠算・暗算
  • 書道・硬筆
  • 英会話
  • 塾・家庭教師
  • 絵画・造形
  • ゴルフ
  • スケート
  • バスケット
  • サッカー
  • キャンプ

などなど、細かく言うと他にもあるような気がするけど、思い出せるのはこんな感じかな。唯一やらなかったのは楽器などの音楽系。

今の僕にとっては「逆にここだけはやっておければ全然違かっただろうに」と思うが、僕自身が「やだ」と言って頑なに拒否した気がするw それはやっておけ昔の俺

小学校での習い事も多かったが、さらに小学6年の時に地元でも有名な中高一貫の私立中学を受験することを勧められた。

小学校6年間を共に過ごした友達と普通に地元の中学に進むと思っていたので、友達と離れることは嫌だったけど、「別に引っ越すわけじゃないし良いか」って感じで受験することにした。

多くの習い事をこなしていたこともあり、もともと勉強自体は嫌いではなかったので、受験勉強には真剣に取り組み、見事に合格した。

試験終了後、本気で「満点かもしれない」というとてつもない手応えを感じたことは、今でも強い記憶に残っている。

中学ではバスケ部に入部。今でこそ186cmという長身があるが、中学入学時は145cmぐらいしかなかった。

ところが中2あたりから急に背が伸び周りを一気にごぼう抜きに。卒業時には180cm近くになっていたので、「高校でも一緒にバスケやろうよ」と誘われたがやらなかった。

バスケは嫌いじゃないし、むしろ好きだったけど、それ以上に僕を夢中にさせるものにハマっていたからだ。

それはヒップホップだ。

ヒップホップとの出会いと衝撃

ヒップホップとの出会いは中学3年の時、先輩と友達がレコードの話をし出した時だった。当時はインターネットなんて全然普及してなくて、買い物は自分で店に行くか、通販ならカタログを見てファックスだった。

田舎町の沼津や三島ではCDは買えても、レコードが買えなかった(売ってる店は1箇所だけ。しかもめちゃ高い)のでヒップホップのレコードを買うのはもっぱら通販。

申し込むと毎月送られてくるマンハッタンレコードのカタログがあったんだけど、それには新作入荷やスタッフのレビューや解説が書いてあるから、これを見ながら注文番号と枚数を紙に書いてファックスで送るわけ。

で、それぞれが個別で頼むと送料も手間もかかるから誰かが代表して注文するのね。

「俺今月頼むけど誰か他に頼みたいやついる?」

みたいな。

それでそいつが家に届いたレコードを学校に持ってきて、注文した人に渡すってことでレコードを手に入れてた。当時の僕はヒップホップなんて全然知らなかったけど、そんな先輩や友達がよく集まっていた溜まり場についていった。

そこはまさに「ヒップホップ」な場所だった。ここでは細かい話は省くけど、ヒップホップって本来は音楽のジャンルのことではないんだよね。

ブーンボックスというでかいラジカセで自作のミックステープを流しながら説明するDJやっている人らと熱心に聞く人ら、その音楽にノリながら踊るダンサーの人ら、フリースタイルでサイファーするラッパーの人ら、他にもダブルダッチ、スケーター、BMXなんかもいた。

めちゃめちゃ衝撃受けて「超おもしれー」ってなって一気にヒップホップの虜になった。その頃はちょうど世間的にもヒップホップがブームでもあった。

ファッションもいわゆる「B系」ブームで、こんな沼津の田舎町でも「Yo、ブラザー、ちょっと見てってよ」な黒人の店が数件あった。それにドラマ「IWGP」のヒットの影響も大きかった。

カラーギャングもいくつかあったし音楽としてのヒップホップとか関係なく、不良=オーバーサイズの服も少なからずあった。逆にファッション的にもブームだったので「B系=おしゃれ」の図式もあった。

いずれにしろ、それ以前からヒップホップカルチャーが好きで、同時にファッションもそっち系だった先輩や友人は、「ワックばっかりだ」といってそんな人らを忌み嫌ってたっけ。

そんなこともあって僕は「その部類」に入りたくなかったから、水面下でヒップホップについて猛勉強した。

具体的にはレコードではなく解説のある国内版のCDアルバムを買って解説を読み、新たに出てきたアーティストやアルバムをメモして気になるものを片っ端に買い、数珠繋ぎに知識を広げていった。

本や雑誌もたくさん読んで時代背景や歴史、アーティスト間の人間関係や組織関係なんかの知識もつけたし、サンプリングの元ネタも辿ってディスコやジャズなどヒップホップ以外の音楽もなんでも聞いた。

そんなヒップホップ漬けの高校生活を終え、石川県の大学に入学。それと同時に、ついに念願のターンテーブルを手に入れた。

    2度の半端な大学生活

    大学に入り、これからさらに自由で楽しい生活が待っていると思っていたが、現実はなかなか厳しかった。

    毎日のルーティーンとすれば夕方4時頃に授業を終え、1度帰宅。少し仮眠してから夕食を食べ、夜には大学の自習室に友達と集合。

    いくつかの課題を友達と分担して、終わったものは写し合い、やっと全てが終わった頃には外が明るくなっていた。

    「じゃあまた後ほどねー」

    といって解散して帰宅し、朝には再び大学へ。これが平日は毎日だった。

    それから、これは僕が工業大学を選んだからてのもあるんだけど、圧倒的に「女子生徒」が少ないのも18の男子大学生にとってはつまらなすぎたね。

    それでも地元の奴らに同級生を紹介してもらったり、他校や街にナンパにでかけたりなど、女の子と知り合うために必死になった。

    でもそのためにはお金が必要だった。

    • おしゃれな服が欲しい
    • 連れてくる家のインテリアもおしゃれにしたい
    • せっかくターンテーブルを買ったんだからレコードも欲しい

    そのために大学の課題に追われる少ない時間でアルバイト(餃子の王将)にも励んだ。でも足りるわけないよね。

    だからバイト代でパチンコして増やした。負けたら何もできなくなるから怖かったけど、増やす必要があったから結局パチンコやって増やしては使いたいがままに使った。

    で、その結果何が起こったかと言うと、学業がおろそかになった。寝坊することも増えたし、授業は身に入らなかった。

    その影響から授業の単位を落とし、留年の危険性まで出てくるようになった。

    • もともと大学に入りたかったわけでもない
    • 建築学科に入ったけど、将来建築士になりたかったわけでもない

    「じゃあなんで大学に入ったの?」

    高校が進学校で、「卒業後は4年生の大学に入ることがデフォルトだった」からだ。もっと言えば「みんなそうしてたし、それに何も疑問を思わなかったから」だ。

    とにかく高校2年生の間に将来やりたい仕事を決め、何学科に進むのかというのを決める。これが生徒、先生、保護者……全員にとっても当たり前だった。

    今なら「こういったシステムそのもの」に疑問を感じるけど、当時はそんなのわからなかった。「みんなそうしてる」列を乱さないように何も考えずにみんなと歩調を合わせていた。

    でもさ、

    • 高校2年生で何種類の職種を知ってるの?
    • 細かな内容までしっている職種はそのうち何種類あるの?

    何が言いたいかと言うと「大学に行って学ぶ(学びたい)もの」よりも「今欲しいものややりたいこと」の方が勝ってしまった。つまり僕は大学を中退したのだ。

    それが2年生の夏で2004年のこと。19歳のころだった。

    大学中退後は三島の実家に戻ってきた。本当は就職して仕事をしたかったけど、じーちゃんや親父の言葉から感じる空気を読んで、別の大学を受験し、もう1度1年生から入学することにした。

    でも学力は落ちまくっていたし、そもそもカリキュラムがハードそうな偏差値の高い大学は受ける気がなかった。

    さらに理系も嫌だったので、現代文と英語の2教科のみで受験でき、これからまた受験勉強しなくても受かるような、偏差値も低めのできる横浜の大学を受けることにした。

    この違和感わかる? 僕は「将来やりたいことのため」という判断ではなく、「大学を卒業するため、つまり『大卒』という資格を得るため」だけに受ける大学を選んだ

    「大卒」にはそれだけの価値があると刷り込まれていたからだ。念のため語弊の無いように言っておくけど大卒には価値がないと言いたいわけではない。

    たしかに世間的に大卒は1つのプラス要素であることは間違いないだろう。でも何も考えずに「今とくにやりたいことがないのなら、とりあえず大学進んでおけばOK」ということでもないと思う。

    入試があるのは年明けなので、それまで昼間は毎日じーちゃんの農業を手伝った。

    じーちゃんは僕の大学卒業を楽しみにしていて「今度は頑張って卒業するんだぞ。卒業したらじーちゃんがベンツでもセルシオでもなんでも買ってやるからな」と言っていた。

    無事に受験を終えて結果は合格。僕は再び大学1年生になった。

    横浜の大学についてはそこまで大きな事象がなかったので割愛するけど、在学中に地元の先輩からの「これからラップをやりたいからDJをやってくれ」という誘いを受け、ラッパーのバックDJをやると同時に、個人でもDJとしてクラブデビューすることになった。

    昼間は大学に通い、夜はバイト、空いた日はライブの練習や曲作りをするようになり、さらに自分らでイベントの主催もすることになった。

    で、その結果何が起こったかと言うと、学業がおろそかになった。寝坊することも増えたし、授業は身に入らなかった。

    何が言いたいかと言うと「大卒という資格」よりも「DJとして有名になること」の方が勝ってしまった。つまり僕は大学を中退したのだ。

    それが2年生の夏で2006年のこと。21歳のころだった。

    あれ? さっき読まなかったっけ? と思ってデジャブ感じた?w

    丁寧に読んでくれてありがとう。そう、つまり僕は大学を2度中退しているわけ。

    これは本当に親に対して申し訳ないと思うし「意思を持たない罪深さ」を知った時だった。

    適当に何も考えずにその場その場で人生を決めてきて、周りの人間をがっかりさせてきたが、生まれて初めてまともに親父の目を見て「音楽がやりたいから大学をやめたい。家は出ていく。大学にかかった金は全額返す」と自分のやりたいことと意思を伝えた日でした。

    貧乏なホームレスDJから日本全国へ

    • 大学を辞めるにあたって2つの大学の学費と、学校生活を送るにあたって必要だった生活費(仕送りや教材費など)の合算額を返済していくこと。
    • 遺産・家・土地など野口家に関わる所有物の権利を放棄すること

    といった内容で親父宛に一筆書き、事実上勘当状態だが借金の返済があるという状況で大学の中退は承認され、実家を飛び出してDJ兼無職兼ホームレスとなった。機材類はラッパーである相方の自宅に持ち込み、基本的にはそこで生活させてもらった。

    あとは友達に泊めてもらったり、2チャンのような携帯掲示板とかmixiとかモバゲーとか前略プロフィールとか(わからないだろ?ふふふ)を出会い系のように活用して、泊めてくれる女の子見つけたり、DJやってるうちに仲良くなった子とかに泊めてもらったりと、ヒモのようなクズ生活を送って生活した。

    とりあえず生きることはできたけど、とにかく金がなかった。所持金もなんとか稼いでも、お札はすぐに無くなり、小銭も大きいものはすぐになくなり、10円以下ばっかりになった。

    10円玉をかき集めれば1食分にはなるけど、若干恥ずかしい。だからスーパーやコンビニなんかにはいかず、牛丼チェーンの松屋ばっかり通った。

    そう、あそこは食券だからね。10円玉を30個以上入れるような買い方しても恥ずかしくないのだ。

    とは言ってもこのままでは小銭さえもなくなるので、音楽仲間の先輩の職場でダクト職人として働かせてもらうことにした。朝早くから昼間はダクト屋として現場に出て、夜まで仕事した。

    週末はDJとしてイベントに出演したり、出演がないときはどこかのイベントに遊びに行って認知度を上げることと営業に励んだので、毎週確実にどこかしらのクラブにいた。

    「とにかく顔と名を売り、出演の営業をとること」

    そのために覚えやすく、目立つ格好をした。身長はあるので、とりあえずそこだけは目につく。

    でもクラブのパーリーピーポーは基本的に派手だし、クラブの中は暗い。ということでコーンロウか、ほどいて結っていたロン毛を切り落とし、さらに剃り上げてツルッツルのスキンヘッドにした。

    さらに服は頭からつま先まで全部真っ赤な服で統一した。しかもクラブ外や、プライベートでも全身真っ赤でいた。

    結果的に顔と名はすぐに一致され、毎週誰かしらに会うたびに挨拶することで、まわりのアーティストや先輩たちと関係性の構築も早かった。

    仕事が休みの日は確実に街のどこかに繰り出した。もちろん全身真っ赤で。

    そうすると先週同じクラブにいた子らに声をかけられたり、逆にクラブで「この前どこどこに居ましたよね?」と言われることが増えた。

    mixiのマイミクリクエストもめっちゃ増えたし、DJとしての知名度も増え、mixiを通して県外からのオファーをもらえるようになった。

    そのあたりからネットでの集客や営業を強く意識するようになり、アメブロでブログも始め、Twitterが日本で開始された時もいち早く取り入れた。こうなると毎日が楽しくてしょうがなかった。

    毎週末に仲間とともに山梨、渋谷、六本木、埼玉、千葉、栃木、茨城、福井や金沢、岐阜、大阪、山口、沖縄など全国各地に呼ばれて飛び回った。

    ライブもDJもすごく盛り上がり、地元のアーティストやクラバーたちとお酒を酌み交わし、泥酔し、交流した。ブログもアメブロからWordPressに切り替え、情報発信をさらに強化していった。

    このブログがきっかけで取材やインタビューの依頼も来るようになった。ようやく「僕」という1人の人間にスポットが当たってきた気がして達成感を感じ始めたよ。

    自分の理念と現場の需要の差から生まれた葛藤

    ところが、次第にクラブのお客さんに対する僕の選曲やプレイに誤差を感じるようになった。ギャラをもらってDJとしてその時間を任せれている以上、そこのお客さんを音楽で楽しませる義務がある。

    需要と供給で言えば、お客さんが望む音楽をかけ楽しませ、最高の40分間を演出することが必要なのだ。

    でも僕は自分勝手だったので、他のDJみんながかけられるようなヒット中の流行り曲をかけたくなかったし、自分にしかかけられない、自分しかできないようなプレイをした。

    曲をきっかけにヒップホップをもっと知って欲しかったし、カルチャーとしてもっと知って欲しかったんだよね。僕がヒップホップに出会った高校生の頃、高校生なりにめかし込んでクラブに通うと、フロアのお客さんもみんな音楽に詳しかった。

    かかっている曲をみんなが知ってたし、「曲を知らないと恥ずかしい」という感覚にもなった。さらにお客さんはみんな「もっとヤバい曲を知ること」に対してかなりハングリーだった。

    僕もそうだったし、クラブで知らないけどめっちゃかっこいい曲がかかっているとDJブースを覗き込み、回っているレコードの中心のラベルを凝視して読み取ったり、DJに教えてもらったりレコードのジャケットを見せてもらったりした。

    こんなことしてたのは僕だけじゃない。だから僕がDJをする理由は「盛り上げること」はもちろんなんだけど、それよりも「曲や歴史を伝え、広めること」の方が目的意識が強かった。

    だけど今はそうじゃない。クラブはでかい音楽の中で飲んで踊って騒いで楽しむ場なのだ。

    僕は「自分の居場所はここではない」と感じ始めた。そこで考えたのがブログによる音楽情報の発信だ。

    「音楽をきっかけにヒップホップカルチャーを知ってもらい好きになってもらいたい」と思ってDJを始めたので、「ヒップホップカルチャーを広めて伝えて行くには今後は現場ではなくブログなんだ」と思った。

    人生最大級に心が荒んだ時期から生まれた最大の転機

    クラブのDJとしての出演回数は減り、代わりにブログで情報発信をしていくようになった。「クラブのDJ」としての生活に重点を置かなくなったことで、空き時間が増え、やることと収入がなくなったので会社に就職して働くことにした。

    毎日朝4時代に起床して始発の電車で会社へ行き、準備をして6時前にはトラックに乗り込み100キロ前後離れた現場へ。8時頃に現場に着いてすぐに仕事に取り掛かるも、仕事内容はハードで10時や15時の休憩はおろか昼食さえ取れる余裕もなかった。

    さらに作業環境も過酷だった。仕事上の都合で密閉されてビニールハウス状態になった現場内は夏は45度近くになり超多湿。

    さらにその中で風を通さないヤッケを着てガスマスクまでするので本当に地獄でした。靴は水の中に入ったように汗で歩くたびにグチャグチャとなり、脚立に立てば靴から汗が滴る。

    こんな空間の中で休憩も取らず8時間以上も体を動かし、やっと終わればもう夕方。急いで片付けをして現場を出るも帰りは渋滞に阻まれ会社に戻るのは21時頃かな。

    そこから日報書いて本社に報告して明日の現場の確認と準備。終電で23時に帰宅してすぐに風呂入って0時には就寝。

    次の日はまた4時過ぎに起きて……みたいな生活の繰り返し。音楽を発信したくてブログを書きたくてDJをやめたのに、そんな時間はまったくとれなかった。

    仕事にはストレスしかなかったけど、それでも生活のために続けていた。

    そんな2013年6月のある日。僕はいつものように早朝からトラックに乗り込み、同僚と仕事現場に向かっていた。

    東名高速に乗る手前でいつものコンビニに寄り、お昼の弁当を選ぶ。それから朝ごはん用におにぎりを2個とお茶と缶コーヒーを持ち、レジに並んでいる最中に目に入ったチキンも頼んだ。

    同僚とトラックに戻りエンジンをかける。

    「さぁーて、それじゃ向かうとしますか」

    昨日と同じ光景と会話が今日も繰り返されている。

    「今日の現場どんなだっけ?」

    「マジでこれを2人で1日で終わらせろとか、社長も無茶ばっか言うよなー。今日も家着くのは22時ぐらいかな」

    「だいたい主任の采配がずりーよな。なんであいつの現場が3人でこっち2人なんだよ。むこうのが近いし小さいんだからこっちに人よこせっつーの」

    「あー、なんかいい仕事ないかなー。さっさとやめてーよこんな会社。割に合わねーよ」

    当時の僕の生活は毎日こんなだった。だけどこの日だけはそれまでと違う事象が1つ頭によぎったんだよね。

    「あ、俺もうすぐ誕生日だ」

    その瞬間めちゃくちゃ鼓動が速くなった。緊張のような感覚に襲われて、いろんな思いが頭の中を駆け巡った。

    俺、会社辞めるわ!

    と言っても今は現場に向かうトラックの中だ。とにかく今日の業務を安全に確実に終わらせ帰路につく。

    理想のライフスタイルを手に入れるまで何度でも挑戦する

    朝は勢いでそんな言葉が出たけど、落ち着いてきたらまた頭の中がぐるぐるしてきた。

    • 本当にやめて大丈夫か?
    • 収入はどうする?
    • 親父への借金の返済は?
    • とりあえず転職先を探す?
    • でも何をやる?
    • どんな仕事する?

    いろんな問いかけが僕を襲ってきた。でもとにかく今のままでは自分が望む未来はないと思った。

    じゃあ自分が望む未来ってなんだ?と考えた。望む未来……つまり将来のことだが、それって「やりたい仕事」ではなく「送りたいライフスタイル」なんじゃないかって初めて思った。

    「将来の夢は?」って聞かれると職業で答える文化が定着してるし、それに対して疑いもしなかったけど、やっぱりこれって変だと思う。子供が職業なんて知ってるはずないじゃないか。

    とにかく僕は仕事内容よりも理想のライフスタイルを考えた。僕が幸せに感じる生き方はこうだ。

    生活のオンオフ問わず、時間、場所、周りの人間、着ている服、食べているもの、使っているものなど、つまりは今後の人生そのものにこだわりを持ち、「好き」と思えるもので構築すること。そして24時間365日ストレスなく生きられること。

    逆に言えば、これが確実にできないことは僕の今後の人生から排除していかなければならない。つまり今排除すべきものは「愚痴とストレスしか出てこない今の仕事」だ。

    やはり会社は辞めようと思った。そこで考えたのは「ブログ」を活用すること。

    「パソコンでブログを書いて稼ごう」

    まずはそう思った。

    音楽ブログとアフィリエイト

    「ブログで稼ぐ」と言ってもやり方は様々だ。ここでは割愛するが僕は「アフィリエイト」に食いついた。

    いや、詳しく言うなら「アドセンス」に食いついた。アフィリエイトのように何かを売るのではなく、好きなことを発信してアクセスを集め、広告収入で生活費を得る。

    もちろん発信内容は音楽だ。僕はDJ時代からWordPressのブログを使っていたので、これを更新し続けアドセンスで稼いでいこうと考えた。

    だが、現実は厳しかった。

    無事にアドセンスの審査が通り広告掲載開始。毎日毎日チェックするもクリックされないし、何よりもアドセンス一本で稼ぐには圧倒的にアクセスが少なかった。

    その収入1ヶ月でおよそ数百円。

    あれ? 誤字かな?

    とか思った人のためにもう少し詳しく教えよう。

    数百円とは100円〜900円の範囲内のことだ。1ヶ月の表記も間違っていない。

    そう、僕のブログから得られる収益は月給500円とかだったのだ。これでは話にならない。

    だが「ブログで稼ぐ」方法はアドセンスとアフィリエイトしか知らなかった。

    僕は

    • 音楽情報(しかもヒップホップ)じゃ大量で安定的なアクセスは厳しい
    • ブログは長期的な運用が必要だ
    • そのためにはやはり来月の生活費を稼ぐ方法が必要だ

    と考えた。

    添乗員と旅行ブログ

    次に思ったのが旅行系の旅ブログ。僕は旅行や観光、自然やグルメを巡るのが好きだ。

    そして生活費を稼ぐ手段は「添乗員」の仕事を始めることだった。添乗員とは旅行ツアーのガイドのようなもので、旅先の案内はもちろん、ツアーの行程管理を行う仕事だ。

    多くの場合は日払い単発の派遣社員のような感じで、添乗員の派遣会社に登録し、ツアー会社から依頼があればそれに同乗して仕事を受けるといった感じ。

    これには研修を受けて資格を取る必要があるが、この仕事をこなして収入を得て、さらに行った旅情報をブログにまとめて公開していけば、さらなる収益アップが図れるんじゃないかと考えた。

    だが、現実は厳しかった。

    研修を受けて、資格も取り、派遣会社にも登録した。だがここは静岡県の三島という田舎町。

    ツアー自体が圧倒的に少なく仕事が全然なかったのだ。会社は辞めたけど、何の資格も知識も技術もないうえにビジネスを何も知らなかった僕は「起業」、つまり自分で何かしらの事業を起こすことは考えられなかった。

    自分にできる稼ぎ方で思いつくのはブログ、アフィリエイト、アドセンスだけだったし。ただし、上記3つについても、ただ知ってるだけで詳しい知識などなかったんだよね。

    だから当時の僕はこのタイミングで「ブログで稼ぐのは厳しい」という結論に至った。

    では何をする……

    何も知らない状態から目指したWEBデザイナー

    「パソコン1つで稼ぐこと」が前提なのでネットビジネス=パソコンで仕事を完結させられることは必須条件だ。そんな中で以前から強く興味があったのはWEBデザイナー、WEBサイトを制作する仕事だ。

    僕はDJ時代のアメブロの時からデザインをカスタマイズしまくっていた。HTMLなんて全くわからなかったけど、ググってコピペしたら大体できた。当時見ていたブロガーさん、丁寧な記事をありがとう

    もともとWordPressに乗り換えた理由も「デザインや機能がアメブロとは比較にならないほどカスタマイズできるから」が1番の理由だった。

    だからHTMLに対するアレルギーはなかったし、むしろデザインやサイト構築のテクニックは是非とも身に付けたいスキルの1つだ。

    ということで「僕はWEBデザイナーになってホームページ制作をしよう。でも何もわからないからまずは制作会社に入って技術と仕事を覚えよう」と考えた。

    だが、現実は厳しかった。

    そりゃそうだろう。デザイナーなんて本来はデザインの学校を卒業してなるものだ。

    【未経験可】の文字も「実務」未経験なだけであって、フォトショップもイラストレーターも触ったことなし、コーディングも全くわからない、という素人にかまう余裕など持ち合わせてはいないのだ。

    地元にはそもそも制作会社すら少ないのだが、ネットで検索して各社のホームページから3社、ダメ元で応募してみた。

    1社は返信さえしてもらえず、1社は不採用、でも残りの1社だけ「よければ面接して詳しく話しましょう」という返事をもらえた。

    話は少し戻って、僕が添乗員の資格取得のための講習を受けている頃、僕はほぼ毎日、沼津の音楽スタジオにいた。

    DJ時代に知り合い、今は音楽プロデューサーとなった先輩が事業拡大のための仲間を探しているということだったので、作業の手伝いや、新規事業の打ち合わせをするために来ていたのだ。

    その流れのまま先輩と1つのビジネスを始めることになった。

    ネットショップなんだけどね。アパレルとか全然関係なくて「歌うためのバックトラックを探しているアーティスト」と「歌うためのバックトラックを作曲しているクリエイター」を繋ぐ仲介サイトのような感じ。

    これを2人で運営しようという話になり、WEBに多少の知識のある僕が更新・保守役。音楽的知識と権利等の専門知識のある先輩が構造や規約等の企画役。

    ショッピングサイトは「カラーミー」等のサービスを使って構築する予定だったけど、機能的に全然こちらのやりたいことがやれず……仕方がないので制作業者に見積もり出してもらったら「メールでもらった情報を見るだけでも最低でも300万以上。ざっくり考えだけでも500万〜1,000万くらいはかかります」だって。もう絶望だよね。

    でも企画した以上はどうしてもやりたいし、なんとかなる方法はないかなーと考えていると、

    「そういえばおまえ、〇〇さんがホームページ制作の仕事始めたの知ってる?」

    「いや、知らなかったっす。前のとこやめたんすか?」

    「やめてそっちで独立したっぽいよ。クラブ業界にいた人だから俺らの構想の理解が早そうだし話聞いてみるか」

    ということで早速アポを取って相談することに。

    勘がいい人ならわかったかな? 偶然にもその人が僕の応募に唯一「面接しましょう」と返してくれた人だったんだよね。

    僕は知らずに応募したけど、むこうはすぐにわかったみたいだった。で、相談の結果、やはり制作費としてはどうしてもそれぐらいは必要だと言われた。

    加えて、今は忙しい(1人社長で人材不足だった)ので、制作にもかなりの時間を要するとのことだった。そこで社長が提案してきたのが、

    • うちの会社の事業として行う。そうすればネット通販というビジネスモデルの中で法人運営のサイトという名目がつけられる。
    • 利益はいらない。全部そっちで分けていい。
    • 僕らはサイトの制作費がない、向こうは人材が足りないということで僕がその会社に通ってデスクとパソコンを借り、会社内で独学で制作に挑戦する。あまりにもどうにもならなければ助けてくれる。
    • これを完成させることができれば、それなりの知識と技術がついてるはずだから、そしたら僕が会社に正式に入社し、サイトの運営をしながら会社の制作の仕事もこなす。

    という内容だった。まぁ、要は将来的に僕を社員として自社に引き込むための技術と知識を与えるために、投資してくれたわけですね。

    これが決まってからは、ひたすら勉強と試行錯誤の連続だった。社長は基本的に打ち合わせなどで外に出ることがほとんどで、僕は電話番だった。

    正直もう少し教えてもらえるかと期待していたがマジで独学だった。レイアウト崩れたりエラーになったり画面真っ白になったりして自分ではどうにもならないって時だけ助けてもらった。

    結局完成まで1年半近くかかったけど、なんとか完成させることができた。

    HTMLなんて全くわからないズブの素人が昼間は週6日間フルタイムでタダ働き&試行錯誤に勤め、夜は生活費を稼ぐためバーテンダーのアルバイトをするという生活を1年半も続けてようやく完成したのだ。

    本当に大変だったけど、300〜500万かかると言われたサイトを1年半で作ったんだから、年収200〜330万程度の仕事をしたと思えば気楽なものだよね。

    今では作るのに1年半かけたそのサイトを、数ヶ月ぐらいで1からフルリニューアルさせる知識と技術もついた。人間その気になればやれるもんだ。

    その経験でつけた知識とテクニックを伸ばし、

    • WEBサイトディレクション(企画・デザイン・コンサルティング)
    • コーディング(HTML・CSS・PHP)
    • WordPress(テーマ制作・カスタマイズ)

    までできるようになり、知り合いなどの身近な人からの制作依頼も入り始めた。じゃあ今はその社長の会社で働いているのかというと実はそうじゃない。

    経緯は省くけど、先輩と社長が揉めて一緒にやれなくなったんだよね。社長は「頑張って作ったのはキミだから、キミが所有者で最高権限者でいるなら」ということでサイトは譲ってくれた。

    「フリーランス」という肩書きを目指してBUYMAも始める

    当時の僕は「フリーランスとして自分で稼いで仕事している」感が欲しかったので、なんとか稼いでアルバイトを辞めたかった。

    そこで今度はBUYMAというプラットフォームを利用したアパレルのネット通販を始めてバイヤーとして動き出した。BUYMAは受注が入ってから買い付けて販売するスタイルなので、ネットビジネスでありながら先に在庫を仕入れなくて済むため、リスクが少ないし資金がなくても始められる。

    ネットで調べながら仕組みと傾向をリサーチし、とりあえずいくつか出品してみた。在庫を抱えなくてもいいので毎日コンスタントに出品作業を続けていたところ、始めて20日あたりで記念すべき初受注が入った。

    めちゃめちゃ嬉しかったよ。しかも高級ブランドばかり出品していたので、初受注した商品は販売価格15万円ほどのバッグ。

    仕入れ方が想定外だったため支出がかさんだけど2万円ほどの利益が出た。さらにそのあと続けて1週間以内に15万円の靴が2足売れた。

    こっちはもう少し利益が出た。つまりBUYMAを始めて1ヶ月で、売上45万、利益7万円ぐらいを稼ぐことができたのだ。

    「これはいけるかも」と思った。

    ここまでで僕のやったことを少し整理させてほしい。

    退職

    音楽ブログ

    添乗員 + 旅行ブログ

    アルバイト + 音楽スタジオ + WEBサイト開発

    音楽スタジオ + ネットショップ + WEB制作

    WEB制作 + BUYMA + ブログ + 会社員

    どう? いろいろやってきてるでしょ。

    後述するけど「フリーで起業する」というと「人生そんなに甘くないよ。夢見すぎ」的なことをめちゃくちゃ言われる。その度にすげー悔しい思いするし、ごちゃごちゃ言ってくる連中にめちゃくちゃ腹がたつ。

    で、こうやっていろいろ方針を切り替えるたびにまた、ごちゃごちゃ言われるわけよ。

    • ほらみろ言わんこっちゃない
    • あれやってこれやってってお前は一体何がやりたいんだ
    • いい加減現実を見てまっとうに働け

    でもね、言われれば言われるほど見返してやりたくなるわけ。それにこれで辞めたら僕と同じようにマイノリティとして世間の「普通」な一般大衆と戦っている人の負けを認めることになる。

    これから君らのような若者が「起業したい」と奮起したとしても、「無理無理」と言われてしまう。絶対に結果を出さねばならないのだ。

    2度目の転機と人生をかけた覚悟

    そう思ってひたすら自分なりに考え、試行錯誤し、仕事に打ち込んだ。そんなある日、じーちゃんが死んだ。

    実家を飛び出してから、両親、兄弟、親戚などなど全く音信不通で自分のやりたいように生きてきたけど、葬儀には出席した。写真は火葬直前の葬儀屋のトイレ。

    自分のじーちゃんの葬儀なのに全然居場所がなくて、撮ったこともない自撮りした。繰り返しになるけど、じーちゃんは僕が大学に入り直してきちんと卒業するのを楽しみにしてた。

    でもまた辞めちゃったから、気まずくて合わせる顔が無く、家を出ていくまで避けた。で、そのまま何年かが経ち結局話さないまま死んじゃった。

    僕は人よりも数倍は楽天家でポジティブ思考だ。でもこの時は結構落ち込んだ。

    でも、「まぁ、悔やんでてもしょうがないか」と思い、すぐに立ち直った。で、そのあと嫌で嫌でしょうがなかったけど、親父の元へ出向いて、「じーちゃんが頑張って働いて立てた家を綺麗にしてそこに住みたい」と話した。

    もちろんすぐには話はつかず、また口うるさいことを言われまくったよw でも自分の蒔いた種だしきちんと筋は通さないと。

    そこで、親父を安心させるため、自分の生き方を通すために、さらに仕事に奮起した。

    そんな時に人生最大級のメンターと出会った。それが「和田直也」という人だ。

    ネットビジネスの情報発信て正直なんだかうさんくさくない?これを読んでいるあなたも、「なんだ。こいつは和田直也って人の手先でグループで回して稼いでるのね」とか思うかもしれない。

    ただでさえ会ったこともない人間がネット上で「稼ぐ」なんて話をしているのに、さらに別の人の名前が出てくる……あやしい

    そう思うかもしれない。信じるか信じないかは個人の自由だが、僕は和田さんを紹介しても和田さんからコミッションがもらえるわけではない。

    だけど、和田さんに与えてもらったことがたくさんあるから何かしらでお返ししたいという思いが僕にはある。これは単純に僕の恩返しなのだ。

    和田さんだけでなく僕のこともネットビジネスのことも「怪しい」と思うならすぐに連絡をしてくれ。僕が直接お会いしてご説明しようじゃないか。

    和田さんからはBUYMAについて、情報発信について、ビジネスについて多くのことを学んだ(現在進行形で学んでいる)。知識として学び、収入として返ってきたものもたくさんあるけど、和田さんと出会って得たもので1番大きいのは間違いなく仲間

    僕は昔からグループ行動が苦手で単独行動や1人の時間が好きだった。うわべ付き合いや、意味のない飲み会なんかは断りまくって常に1人だった。

    仕事も誰かに教わるよりも「独学で学んできた俺すげー」みたいな部分に酔ってた。でもある日気づいたんだよね。

    団体行動が嫌いなんじゃなくて価値観が合わない人と共有する時間が嫌いなんだって。逆に価値観や考え方が合う人らとの飲み会はめちゃめちゃ面白いし、正直何時間でも話していられる。

    そんな仲間らと人生をポジティブなスパイラルで謳歌したいと思ったから、僕は再びブログを始めた。僕は20代や10代のの頃から「やりたいな」と思ってたことで、今でも変わらずにやりたいと思っていることがいくつかある。

    でもそれって「10年の間にやれるチャンスがなかったものなのか」と言われればそうじゃないし、やろうと思えばいつでもできたと思う。でもやらなかったのは本気じゃなかったし、「いつかやれればいいな」ぐらいの感覚でしかなかったから。

    そんな考えていたまま30歳を超えてふと思うのは「30代になったら30代になったでまた新たにやりたいことややらなければならないことが出てくる」ということ。

    僕はこの歳になって「今思えばあの時あれできたな」と思うことがいくつかある。でもそのやりたいことをやるためにはいくつかの障害もあった。

    それは周りの目とか世間体とかそういうの。さらに一定数の人間が、とにかく口うるさく言ってくる。

    • そんなんで成功するのは一握りの人間だ。お前にできるわけがない
    • 夢みすぎ
    • あれもやって、これもやって、とフラフラしてないでまっとうに働け
    • やりたいことがあるなら普通に働いて、夜や休日で趣味としてやれ
    • それで稼げるなら誰かがやってる。誰もやってないってことは稼げなかったってことだ。

    これらに左右されずにもっとぶっ飛んだ人生に挑戦したっていいと思うんだよね。僕からすれば今の社会は人の尖った部分を削り、はみ出したところを切り捨て、全員を同じ形にして送り出す既製品工場だ

    「代わりはいくらでもいる」ような「誰でも同じ意見で同じ行動をする」ような。日本という大きな工場のロボットみたいだと思う。

    はみ出した部分がその人の個性であって才能でもあるのに。近い将来AIがもっと発達すれば人間の仕事はロボットに奪われる。

    誰でも同じ考えで誰でも同じよう動くのはロボットだけでいいんだ。僕はもっと感情の乗った人間とビジネスしたいし生きたいと思う。

    その人生におけるこだわりの感情を発信することで、共感してくれる、自分と向き合ってくれる仲間を見つけることができるのがブログだ。ただし、ブログは多少コツが必要だ。

    ただ闇雲に発信していても、共感してくれる人の元へ届かなければ無駄になってしまう。

    僕はネットビジネスに出会い、ネットショップを立ち上げ、WEBデザインや制作をこなし、アパレルバイヤーとして洋服を輸入販売し、ブログを書き、ブロガーやライターを教育する仕事をしている。

    先の和田さんをはじめ、日本や世界の各地で色々な人と繋がり、直接会って話し、酒を酌み交わし、日々ストレスなく楽しい人生を送っている。でもここ最近になって1つ気づいたことがある。

    自分が生まれ育ち、今も生活している地元が出遅れてしまっている、と。三島や沼津近郊で同様の情報発信をしている人間や企業がなく、日頃の周りの人間もITリテラシーが低いと思った。

    そのために都会との情報格差が発生して起きている三島の若者離れ、人口減少を止めたい。また、「『地元の発信』とすることで同様の悩みを抱える地方都市の情報発信者を増やしたい」と強く思った。

    具体的には、SNSやスマホの普及で情報発信に慣れた地元の若者にネットマーケティングと、WEB集客、ライティングを教える。企業や個人店舗様にホームページを制作しているけど、残念ながら大金をかけて作ったそのサイトを有効に活用しているとはとても思えない。

    • 日頃の発信が大事です
    • お客様のためになるブログを更新してください

    と伝えても、ブログの書き方(操作マニュアルは渡してる。具体的な方ね)がわからなかったり、そもそも発信の担当者がいなかったりする。だから僕が教育した若者が、そこに発信担当として入社、もしくは外部ライターとして仕事を請け負う。

    地元企業の未来の従業員となる若者を育成し、つなげる。地元での就職支援ともなり若者の地元離れや、人口減少を緩和し、逆に地方創生、地域活性につなげる。

    それからもう1つ。稼ぐだけじゃダメ、マインドがついて始めてかっこいい大人の男になれる

    さっきも言ったけど、こだわりを貫き発信することで共感してくれる仲間が集まる。ただし、自分のこだわりをとおすことと、そのこだわりとは違うものを卑下したり悪く言うことは違うし、それでは自身だけこだわりを貫くことは筋が通らなくなる。

    同様にTPOやマナー、モラルなどがなっていないと、せっかく収入があって綺麗なスーツに身をつつんだ経営者でも途端にダサい大人になってしまっていることに気づいた。紳士は無意識に人を傷つけないのだ。

    三島市の若者と共に世界的に模範となるダンディになり、世界平和につなげたい

    今一度いう。

    僕は、WEBメディアを中心にアパレル事業、音楽事業、コンサルティング、と「トータル的なライフスタイルの向上」を目的に幅広く企画・制作を手掛けている。

    その根幹にあるのは、いかに「ワクワク」や「おもしろさ」を見出していくかに対する「好奇心」と「情熱」だ。僕たちの日常と私たちの仕事はいつも新鮮なアイデアに溢れ、好奇心とワクワクで満ちていると思う。

    好奇心を持ち続けて情報を収集し続けること、いま必要のない機能や情報はどんどん捨てていく勇気、そもそも何のための行動なのかはっきりさせることを常に意識し、ひとりひとりがベストを尽くすことで、クライアントだけでなく仲間からも感謝される。

    自分が起業したり自身の価値観で発信することで、マイノリティになりつつも乗り越えていき、人の夢や目標に対し、あれこれ言う人間ではなく応援できる人間を増やす。

    「ありがとう」の一言でもっと頑張ろうという気持ちになる。そういった日々の積み重ねがチームの力となり、結果としてこれまで以上に感謝していただける仕事ができる。

    それは仕事をきっかけにストレスから解放され他人の痛みに気付ける人間で満たされた平和な世界につながる。僕はこのブログで、そんなダンディでハッピーなスパイラルを一緒に創っていける仲間を集めています。

    嫌な人と嫌な時間は過ごさず、好きな人と好きな時間を過ごせる。自分の理想とする生き方ができるように、人生の選択肢を増やせるきっかけを作りたい。

    • やりたいことやれてますか?
    • 5年前にやりたいと思ってたことは5年間でいくつ減らせましたか?
    • その割合だとこの先30年でいくつ減らせますか?

    自分を見失わず本当の理想のライフスタイルを見つめ直し、追い求めていこう。

    三島の未来を担うみんな、僕とともに世界的に模範となるようなダンディでクリエイティブなビジネスマンになって、世界を平和にしませんか?

    最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。


    PS

    動き出すなら今だ。男になりたいか、おじさんになりたいか